とうとう2016年。 

とうとう2016年がやってきた。
20世紀からずっとため込んできたものを、この2016年にすべて放出するつもりで待ち望んでいたのである。
あれも出すし、これも出すだろう。ちょっと古いものもあるが、勘弁していただきたい。なぜなら、かなり古くからため込んでいるからである。
だが、出さないものもある。2016年に出るかと思って待っている方もいるかと思うが、出ない場合は勘弁していただきたい。なぜなら、おそらくそれは2017年に出そうと思ってため込んでいるものだからである。
まずは2016年のためにため込んだものを1年を通してご覧いただきたい。

では、今年もよろしくお願いいたします。

わが家の妖怪 

妖怪というのはどこにでもいるもので、ふと気づけば、その姿は見えないが、わが家にも存在しているようだ。

たとえば、確実に消したはずなのに、つけっぱなしになっている蛍光灯。これは「蛍光灯つけっぱなし妖怪」のしわざである。

冬場には消したはずの炬燵のスイッチを入れる妖怪がいる。「炬燵つけっぱなし妖怪」がやっているに違いない。

居眠りをする前に消しているにもかかわらず、目が覚めるとついているテレビは、私が寝たところをみはからって「テレビつけっぱなし妖怪」がつけているのだ。

これらの妖怪は、大きく分けると「つけっぱなし系の妖怪」にカテゴライズされる。

ふと気づくと、ポタンポタンと水滴が垂れている水道。「水道ちゃんとしめない妖怪」である。

夜、寝るときはちゃんとかけている掛け布団、夜中に気づくとはだけていることがあるが、これは「布団はがし妖怪」の手によってはがされたに決まっている。

テーブルの上に捨てたはずのスナック菓子のあき袋が散乱している。「スナック菓子あき袋散乱妖怪」である。

朝、急いでいるときに限って、靴下の片方が見つからないのは、「朝、急いでいるときに靴下の片方を隠す妖怪」のいじわるだ。同種に「スリッパを片方隠す妖怪」もいることは覚えておこう。

つねに出るときには閉めているトイレの便器の蓋が、次に入るときには上がっているのは、「便器の蓋上げ妖怪」がそのつど、蓋を上げているのだ。

必要なときには必ず見当たらない消しゴム。探しているときには、どこかで「消しゴム隠し妖怪」がニタ~リと笑っているはずだ。

こうやって書いてくるとわかるのは、そのことごとくにおける妖怪の名前のセンスのなさだ。
おそらくこれは、「妖怪の名前を付けるときにセンスがなくなる妖怪」のせいである。

メンクイ 

行列ができる評判のラーメン屋。あまりのうまさにめんくらった。

彼女に「ラーメンとうどんと蕎麦、何が好きか」とたずねると「全部」と答える。彼女こそ真のメンクイだ。じゃなきゃ単なる食いしん坊。

めんくらう側ではなく、めんくう側に回りたい。それが正しいメンクイの態度であろう。

メンを喰ったり喰われたりの仲。

わたくし、育ちがいいものですから「めんくらう」などとは申しませんの。「めんたべる」と申しますのよ。おほほほほ。

とりあえずメンをクイクイッとしてみる。

めんくわないなんて信じられない。人生、めんくってナンボだろ?

おいおい、いくらメンクイだからといって、おれの顔にかじりつくなよ。痛いじゃないか。

めん喰らわば皿まで。

「めんくらう」とは「面がクラッシュする」という今風の略語であることはあまり知られていない。

メンクイとメイクイーンはまったく無関係です。

メンクイってあれだろ。要するにアリクイみたいなもんだろ。

「めんくい菩薩」に祈りを捧げる。

めんくって、めんくって、めんくう。そんな生涯を過ごした偉人の伝説。

メンクイってメス?オンクイもいるの?

感謝感激雨あられ 

感謝や感激という喜ばしいものでも、それがいざ雨やあられのように空から降ってきたら、当たりどころによっては大けがをする可能性もあるので、気をつけたほうがいいだろう。しかし、ひとくちに「気をつけろ」といっても、予告もなくゲリラ豪雨のように降ってきたら、よけるによけられない。できればテレビなどの天気予報で「降感謝感激確率」というものを知らせてほしいものである。
ただ、いくら感謝や感激が降ってくることがわかっていたとしても、それをよける手段がはっきりしない。感謝や感激に降られたことがないので、はたして一般的な雨用の傘が役に立つかどうかも定かでではないのだ。その勢いによって、傘を突き破ってくる可能性も十分に考えられるのである。
そのあたりも熟慮したうえでの、先の「気をつけろ」という言葉であることをおわかりいただきたい。

流行語を追いかけて―お・も・て・な・し 

あのような大舞台でかくも堂々と行われた「お・も・て・な・し」に、秘密の情報が隠されていたことは、関係者以外は誰も気づかなかったという。だからこそ、オリンピックが東京に招致できたのであるが、これがもし、ライバル国にばれていたら、とてもこんなふうにお祭り気分ではいられなかっただろう。
ポイントは、「おもてなし」を「お・も・て・な・し」と一語ずつ区切って発音されたところにある。そこから連想されるのは、日本に古来伝わる「あいうえお作文」だ。

「お」おまえたちの世界で

「も」もがき苦しむ畜生たちが

「て」てめえのはらわたを引きずり出し

「な」泣きながら這いずりまわれば

「し」しおしおのパ~

このような恐るべき意味が隠されていたことは、関係者の中でも一部のものしか知らないトップシークレット事項であり、これが外部に漏れると、世界の均衡が崩れかねないのだ。
これを読んだ方も、くれぐれも誰かに話さないようにしていただきたい。

めくるめきたい。 

常日頃から「めくるめきたい」と思っているが、そのタイミングがつかめず、いまだめくるめくことができないでいる。人はいついかなるときに、いかようにしてめくるめくのか。ご存じの方がいらっしゃったら、めくるめき方をご教示いただきたいものだ。
しかし、ただ「めくるめきたい、めくるめきたい」と言っているだけでは、いつまでたってもめくるめくことはできないだろうし、第一、人として進歩がない。進歩がない人間ではめくるめけないのは道理だ。だからこそ、めくるめくための第一歩を踏み出すために、まずはめくるところから始めてみたい。めくれば、そのあとにおのずとめくるめく行為が伴ってくるはずだ。
こうやって考えてみると、めくるめくが意外と近いところにあることに気づく。ただ、本当にめくるのあとにめくるめくが待機しているかどうかが問題だ。いざ、めくってみたら、そのあとにともなってきたのが、メルクマールだったとしたら、目も当てられない。メルクマールとめくるめくの距離感は気が遠くなるほどに果てしなく遠いからだ。
だが、そんなことを考えていても仕方がない。まずはめくることに勇気を持ってチャレンジだ。そこからめくるめく旅が始まるはずだからである。

大目玉を食らう(その2) 

前回、「大目玉を食らう」と題して、大目玉を食すときの心構えを説いた。食べるときの心構えなどは、通常は持たないものだが、大目玉だけは違う。それなりの気持ちでもって大目玉に対峙しなければならないのである。
しかし、大目玉を食らう場合の問題点はそれだけではない。それほどの大目玉である。その背後には、その大目玉の持ち主である巨人が存在することが暗示されているのだ。いや、巨人ではない。大巨人だ。そんな大男の目玉をくりぬくために払われる努力たるや、多くの人や知恵や力が払われてきたことだろう。その成果が、目の前のお皿に載っている大目玉料理に結実しているのだ。それを考えただけでも、厳粛な心持ちで対さなければならないことがわかるだろう。