ハーヴェイ 

この作品の評価は、「ハーヴェイ」、つまりプーカが見えるか、見えないかで180度ちがったものになるだろう。
レビューなどを見るかぎり、プーカが見えなくてトンチンカンな感想を述べている人が大半なのだが、どうしてあれほどはっきりと映っているのに見えないのだろうか。理解に苦しむというしかない。
きっと、彼らのそばには巨大ウサギがいないのであろうな。
……と、書いたところで、「そうだ、そうだ」と声が聞こえたので、振り向くと、画面をのぞき込んでいたプーカであった。
このプーカがそばにいるか、いないかで、このレビューを読んだ感想も360度ちがったものになることであろう。

■HARVEY 1950年 アメリカ映画
監督:ヘンリー・コスター
原作:メアリー・チェイス
脚本:メアリー・チェイス、オスカー・ブロドニー
出演:ジェームズ・スチュワート、ジョセフィン・ハル、ペギー・ダウ、チャールズ・ドレイク、セシル・ケラウェイ、ビクトリア・ホーン、ジェシー・ホワイト、ウォーレス・フォード、アイダ・ムーア


HARVEY

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メジロには押されたくない 

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ここのところ、次から次へと仕事の依頼があって、やってもやっても終わらない。このような仕事の状態は、一般に「メジロ押し」という。
つまり、メジロがぐいぐいと力まかせに押してくるような状態のことである。人間大のメジロが私の後ろに列をなしていて、そいつらがキーッとか鳴きながら、私の背中を押しているというのである。
この不況の時代に、こなせないほどの仕事がある状態はまことに幸せと思わなければいけないのであろうが、しかし、メジロというのはどうだ。
メジロに押されたからといって、けっしてモチベーションが上がるわけではない。いや、かえって嫌気が増すばかりである。
これがたとえばカワセミであったらどうだろう。カワセミ押しだ。カワセミに押されるのであれば、それじゃあがんばってやってやろうかという気持ちにもなろうし、なんなら寝る時間を削ってでもやってやるという気も起きてくるのではないだろうか。
カワセミ押し、それはなんと幸せな状態であろう。どうせ押されるのであれば、ぜひともカワセミに押されたいものである。

■カワセミ 翡翠 カワセミ科 Alcedo atthis

殺人現場のアレ 

ニュースやドラマの殺人事件の現場検証の映像では、チョークで人の形が描かれ、そこここに数字の札が立てられている。
その数字の札は、正式な名称は知らないが、飛び散った血痕や証拠などの位置を示しているのだろう。
人はよく、チョークの人の形のことは話題にするが、この数字の札については、なおざりにしていると言わざるをえない。
これらを見ていていつも思うのは、「数字の札はいくつまで用意してあるのだろう」ということである。
札を並べていったら途中で足りなくなっちゃったので、急遽手書きの札を作って並べるといった、ていたらくな状態は避けたいだろう。
たとえば、血が広範囲に飛び散るような残虐な犯罪や、刑事ドラマであるような出血しながらもずるずると動きまわったりするようことを考えれば、おのずと札の必要数は多くなるはずだから、1000くらいまでは用意されているのではないか。
ただ、数字が4桁になった場合、札の横幅が広くなりすぎて、隣の証拠の上に乗っかっちゃったりして、かえってじゃまになったりしないだろうか、という心配も出てくる。
さらに言えば、その札に使われている書体にも気を配っていただきたいものである。
視認性を考慮したうえで、オーソドックスな明朝体やゴシック体のほかに、和服の死体であれば行書体あたりの札を使いたいし、和服といっても落語家や相撲取りであれば当然、勘亭流だ。小学生の場合は教科書体になろうし、呪われそうなくらいひどい状態であれば淡古印の選択もあろう。
死体がフランス人であれば、有名なフランス書体「ガラモンド」で印刷された札を使い、ドイツ人であればもちろん「フーツラ」、スイス人の場合は「ヘルベチカ」という具合だ。死体の国籍が不明のときのために、万能のサイン書体「フルティガー」は準備しておくべきだろう。
鉄道事故で亡くなった死体のときには、ちょっとこだわりと郷愁をもって「ゴシック4550」といきたい。
日本では昔は「いろは」の札を使用していたらしいが、48までしかないので、足りなくなったときには「きゃ、きゅ、きょ」とか、「…」「。」「仝」「「々」など、なんと読めばいいのかわからないものまで使われていたというから驚きだ。
今後の札の新しい方向性というものも考えなければならない課題だが、いくらケータイ時代だからといって、これらの札に絵文字を使用するのだけは避けたほうがいいだろう。

ダンシング・ヴァニティ 

刊行当時、読了後に私を襲ったのは感動という言葉とはほど遠い感覚である。しいていえば、説明のつかない情動。そして鳥肌。
あらすじを述べても意味がない。ストーリーはぐるぐると台風のように回転しながらも、その位置を右に左に、上に下に移動していく。
その螺旋状の渦巻きははたして上に向かっているのか、下に向かっているのか。それは判然とはしないが、だんだんにスピードを増しながら、やがて1点に集束していく。1点とは、ペンなどで書いた点ではなく、本当の点である。面積も高さもない、無の点である。この本を読み終わるためには、その点に吸い込まれそうになるのを、身体を踏んばって押しとどめなければならない。
毎回毎回、読むたびに吸い込まれそうになり、その吸引力はだんだん強くなっていく気がする。そのうち、誰もいない私の部屋に、最後のページが開かれたままのこの本が一冊ぽつんと置かれている、ということが起こりそうな気さえしてくるのである。
おこがましい物言いではあることは承知のうえだが、ずっと読者としてツツイを追いかけてきていて、いまだに彼の背中さえ見えないのが悔しくもあり、痛快でもある。

■ダンシング・ヴァニティ 2008年1月 新潮社
著者:筒井康隆


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走れ、メロス 

「走れ、メロス」と言われて、メロスは走った。
したたる鼻水をぬぐおうともせずに走った。
その姿を見て、人は言った。「鼻たれ、メロス」と。

メロスはクジを引いた。
一等賞のハワイ旅行を夢みてクジを引いた。
しかし、何も当たらなかった。
手に鐘を持った係の人は言った。「はずれ、メロス」と。

メロスは別室に案内された。
その部屋は母屋からはかなり歩いたところにあった。
案内をしてくれた人は言った。「離れ、メロス」と。

メロスは歌が上手だった。
しかし、メインボーカルをとらせてもらえなかった。
メンバーは、こう言った。「ハモれ、メロス」と。

メロスは家来だった。
主人のそばにずっといるように言われていた。
主人はこう言ったのだ。「はべれ、メロス」と。

ダザイなる人物が自分を主人公に小説を書いたらしい。
その本は売れているのか、売れていないのか。
ダザイは祈っていた。「流行れ、メロス」と。

メロスはダザイの家を訪ねた。
ダザイの家のドアをノックした。
中からダザイの声がした。「入れ、メロス」と。

見事に流行ったメロスはお笑い芸人になっていた。
しかしまだ新人なので、先輩のボケには合わせなければいけなかった。
先輩がボケたときはこうするのだった。「はらほろひれはれ、メロス」と。

メロスの足もとにはバレバレの落とし穴があった。
その場のノリからすれば落ちたほうがいいのだろう。
落ちたくはなかったが、先輩にこう言われたのである。「はまれ、メロス」と。

メロスはどちらかというとモゴモゴとしゃべるほうだった。
それはお笑い芸人にとって致命的だ。
モゴモゴしゃべるたびに言われるのだった。「歯切れ、メロス」と。

高尚な文学の登場人物から芸人になってしまったメロス。
ダザイはそれを快く思っていなかった。
ダザイはメロスに言ったものだ。「恥じれ、メロス」と。

ダザイに罵倒されたメロスは傷心の旅に出た。
誰もメロスの行き先を知らない。
人々はこう言った。「はぐれ、メロス」と。

メロスが場末で見つかったときは正体不明の状態だった。
服もボロボロだった。
皮膚もボロボロだったので、こう言われた。「肌荒れ、メロス」と。

そんなメロスにダザイは言った。
「もう一度走れ、メロス」と。

メロスは返答した。
「走れ?無理ッス」

スーパーカー伝説 

1970年代に異常な高まりを見せたスーパーカー・ブーム。そのときに一世を風靡した数千万円の車は、いまでもその輝きを失っていない。
そんな車の数々から、今回は、当時フェラーリと最高速を争ったとされるランボルギーニの雄、カウンタックを紹介しよう。
もっとも争ったといっても何が最高速なのかは判然とせず、それはこの車の特徴である開閉式のリトラクタブルライトが車体から出てくる速さだとか、部品から組み立てるときの早さだとか、諸説ある。
車名の末尾にLP400とかLP500というものが付随するが、これは動力源がLPガスであり、車体を動かす必要量(単位はミリリットル)を表している。
ガルウィング式のドアは、開いたままにして走れば空を飛べるとされるが、今も昔も自動車免許と飛行機の操縦免許は別であるから、そのまま飛んだら当然のごとく違反となる。そこのところの折り合いは、当時はどのようにしていたのであろうか。気になる点である。
大排気量のミッドシップエンジンはシートの後ろに配置されており、その影響で車内の居住性は極端に悪い。現在の核家族化社会を先見したデザインともいえるが、一家4人で住むには窮屈な思いをすることになるだろう。購入のさいは、その点を熟慮されたい。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ 

この映画の登場人物は、みな弱いところを持っていながらも、意外とたくましい(いや、弱いところを持っているからこそ、か)。だから、誰が腑抜け役なのか、その正体を見抜くのは困難だ。
結局は永作博美演じる待子お手製の得体の知れない人形がそれだったとは、さすがに気づかなかった。
クライマックスで、腑抜けの人形に腑が吹き込まれ、腑入りの怪物に姿を変えて、サトエリ演じる澄伽や、永瀬正敏演じる腹違いの兄宍道に襲いかかるスプラッタシーンは、おそらく映画史上に残る鳥肌ものの恐怖を味わえるだろう。
お見逃しのないようにされたい。

■腑抜けども、悲しみの愛を見せろ 2007年 日本映画
監督・脚本:吉田大八
原作:本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
出演:佐藤江梨子、佐津川愛美、山本浩司、土佐信道(明和電機)、上田耕一、谷川昭一朗、吉本菜穂子、湯澤幸一郎、ノゾエ征爾、米村亮太朗、大原真理子、高橋睦美、金沢まこと、大川婦久美、永作博美、永瀬正敏


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